京都府立京都学・歴彩館
東寺百合文書WEB

百合百話 (ひゃくごうひゃくわ)

48.平成27年度 東寺百合文書展 その1

2016-01-04

 

 

2015年10月1日から11月8日まで開催していた「平成27年度東寺百合文書展―今に伝わる2万5千通― 文書がなくなるこんなとき―」は無事終了することができました。ちょうど東寺百合文書がユネスコ世界記憶遺産に登録されたこともあって、例年よりも多くの方に足を運んでいただき、展示について様々なご感想をいただきました。

「資料館以外の場所(東京や大阪など)でも展示が見たい」、「遠方に住んでいるので、なかなか見に来られない」というご意見もありましたので、今回の百合百話では、ウェブ上で展示を再現したいと思います。

 

展示期間中に会場で配布していた解説はこちらからどうぞ。翻刻テキストやQRコードがついています。

 

展示室ではつぎのように文書を陳列していました。

展示室

 

1 東寺百合文書桐箱(り函・ニ函)

東寺百合文書桐箱 り箱・ニ函

東寺百合文書は江戸時代に前田綱紀公から寄進されたこのような桐箱に納められて今に伝わりました。展示したのは2つだけですが、94個現存しています。中世以来の文書をこれら桐箱に納める作業は半日ほどで終わったという記録があり、1万8千点、2万5千通を超える数の文書の移替え作業にそれだけの時間しかかからなかったことから、とくに整理などはせずに右から左に納めていっただけだと考えられます。もし、このときにきちんと整理しようということになっていたら、とっておかなくてもよいのでは、と判断されて棄てられる文書も多くでていたはずです。文書の移替え作業をおこなったのは元禄10(1697)年9月27日ですが、この日は、これだけの数の東寺百合文書が今に伝わるかどうかが決まることになった、とても重要な日だったといえるのではないのでしょうか。

 

2 東寺百合文書収納簟笥

東寺百合文書収納簟笥

現在、文書はこのような簟笥92棹に収納しており、江戸時代以来の桐箱は空になっています。

 

3 の函1号「東寺宝蔵焼亡日記案」長保2(1000)年11月26日

の函3号

文書がなくなる原因のひとつが火災です。長保2(1000)年11月25日に東寺の「北郷」といわれる地域から出た火によって、北と南と二棟あった東寺の宝蔵のうち、北の宝蔵は焼失してしまいますが、南の宝蔵の宝物(ほうもつ)は取り出すことができたようです。この文書は宝蔵にあった宝物のリストで、焼失したもののうちに仏具とならんで「諸国末寺公験並庄庄公験等」や「寺家官符等」といった文書も書き上げられています。「公験」(くげん)や「官符」(かんぷ)というのは国が寺社や貴族に宛てて出す文書で、土地などの権利を公に保証するものです。東寺百合文書の中にある荘園に関する古い時期の文書はほとんどが案文(あんもん、案といっても草案や下書きではなく正本を書き写したもの)ですが、もしこの火災がなければ原本が伝わっていたのかもしれません。
ちなみにこの文書も「案」という名前のとおりオリジナルではなく写しなのですが、写されたのは文治3(1187)年、源頼朝が活躍していたころのことで、写しといってもずいぶん古いものです。

 

4 ヒ函61号「造営方算用状」康暦3(1381)年2月21日

ヒ函61号

御影堂内の文庫にも重要な文書が多く保管されていました。康暦元(1379)年12月4日、東寺の西僧坊からでた火によって御影堂は焼失してしまうのですが、『東宝記』(とうぼうき)という記録には「寺僧等走集、不動像・大師真影以下、本尊・道具・聖教・文籍等、悉以奉取出畢」と書かれていて、文書などは無事避難させることができたようです。この火事よりも前の時期の文書が東寺百合文書の中に残っているのはこのときに奔走した人たちのおかげなのですね。

この文書は焼失した御影堂を再建するために要したさまざまな支出を記した帳簿で、展示した箇所には康暦2(1380)年6月6日に行われた「造営事始」という行事での支出が書かれています。索麺(素麺)に支出した金額が1貫500文とありますが、これは酒代3貫700文の40パーセントになる金額です。かなりの量の素麺を用意したように思われるのですがどうなのでしょうか......

 

5 ワ函79号「廿一口方供僧評定引付」文明18(1486)年9月18日条

ワ函79号

東寺のなかには「鎮守八幡宮方」(ちんじゅはちまんぐうかた)、「学衆方」(がくしゅうかた)、「造営方」(ぞうえいかた)など、「~方」とよばれる供僧の組織がいくつもありました。この文書は廿一口方(にじゅういっくかた)と呼ばれる組織で行なわれた会議(=「評定」)の記録(=「引付」)です。

土一揆というのは、民衆が金の貸主・土地の質取主である土倉や酒屋を襲って借金の棒引きを認めさせたり、質に入れた土地や物を取り戻したり、幕府に徳政令を出すように強要したり、といった蜂起のことです。その土一揆が頻発していたこの時期、東寺は度々一揆側の陣地にされていました。この文書には、文明18年9月10日、細川政元の軍勢が寺にたてこもっている土一揆を追い立てようとしたところ、放火されたものか、金堂・講堂・鐘楼・経蔵・鎮守八幡宮・中門・南大門が炎上してしまったことが書かれています。

 

6 り函76号「東寺領山城国散在田地并敷地文書紛失目録」応永10(1403)年12月 日

り函76号

東寺の建物そのものではなく、僧侶が住んでいる建物の火事でも文書がなくなることがありました。応永10(1403)年12月1日、「杲淳僧都」の住居が火事になったときには建物内にあった寄進状など、土地に対する権利を証するための文書が焼失してしまいました。

 

7 ト函28号「比丘尼西妙田地寄進状」元亨2(1322)年3月14日

ト函28号 比丘尼西妙田地寄進状

上のほうに焼けた痕がありますが、6の火事でこうなってしまったと考えられています。この文書はなんとか残ることができましたが、もしも火の中から取り出すのがもう少し遅れていたら、燃え尽きてしまって6の文書のなかに書き上げられていたかもしれません。この文書で比丘尼西妙が御影堂に寄進している八条大宮の土地については他にもいくつか文書がありますが、その中には、せ函/武家御教書並達/29/のような焼けた痕の残るものもあります。

 

8 ヱ函92号-8「尼慈快田地文書紛失状」

9 せ函11号-1「尼慈快田地文書紛失状」元弘3(1333)年11月 日

せ函11号‐1ヱ函92号-8

紛失状というのは、土地の証文がなくなったときにそれに代わる新たな証文とするために作成するもので、どうして文書がなくなったのかということがきちんと書かれているため、今回のようなテーマにはうってつけです。この文書(展示番号8)には「去五月六七両日、六波羅大勢打入慈快之住坊七条、財宝以下悉令奪取之間、彼田地証文等同令紛失畢」と書かれています。六波羅の大勢の人間が七条にある慈快の家に打ち入り、財宝を奪い取っていったときに土地の証文も紛失してしまった、というのです。「去五月」というのは、別の函のなかに残されていた後半部(展示番号9)を合わせて読むと、元弘3(1333)年の5月のことだとわかります。これは鎌倉幕府が倒れようとしている時で、5月7日というのは六波羅探題の北条仲時・時益が光厳天皇や後伏見上皇、花園上皇を奉じて鎌倉を目指して逃げたまさにその日です。時の政治権力が移り変わろうとする過程で、普通の人もその騒乱に巻き込まれていたのです。

 

10 イ函45号「法印真聖敷地券契紛失状」文和3(1354)年7月 日

イ函45号

文和2(1353)年6月9日に、楠木正儀らの南朝方が京都に押し寄せてきました。東寺にも悪党人が打ち入ってきて、金蓮院坊では資材・雑具を奪おうとする悪党人がまきおこす混乱の中で土地の証文が紛失してしまいます。この文書はそれからおよそ一年後に作成されたもので、なくなってしまった文書に代わる証文とするために、文書がなくなった事情を述べて、検非違使の署判をもらったものです。

 

11 ろ函3号-25「真言院後七日御修法請僧交名」建武3(1336)年

ろ函3号-25

1月8日から14日まで、宮中の真言院では玉体安穏・鎮護国家を祈る後七日御修法が行なわれます。東寺長者がつとめる阿闍梨以下、誰がどの役をつとめたのかを記したのがこの交名(きょうみょう)で、毎年貼りついでいくため太い巻物のようになっています。展示したのは表面の交名ではなく、裏面です。裏面には阿闍梨をつとめた人によってその年の修法についてのあれこれが書き記されているのですが、この建武三年の後七日御修法は大変だったようです。この年の阿闍梨、東寺長者弘真によれば、例年どおり8日に御修法を開始したものの、10日に足利尊氏の軍が都に攻めてきたため後醍醐天皇は比叡山に逃れ、弘真も修法の道具を返しただけで比叡山にお供をした、という状況でした。この交名は、正平一統とよばれる南北朝の和平がおとずれた後、正平7(1352)年に弘真が再び後七日御修法の阿闍梨をつとめた機会に書いて貼り継いだようです。ただ、その和平は長くは続かず、展示番号10に見えるような争いが起こってしまいました。

 

ろ函3号-25

 

12 京函72号-2「比丘尼良明敷地文書紛失状案」建武3(1336)年8月 日

京函72号-2

比丘尼良明が、なくなってしまった土地の証文の代わりにするために書いた文書(の写し)です。良明は祇園中路の迎接院という寺院の蔵に土地の証文を置いていたのですが、建武3(1336)年1月17日の世上動乱の時に、軍勢がその寺に乱入し、蔵を打ち破って仏具聖教などを奪い取ってしまいました。良明の文書もこの時に紛失してしまったようです。この世上動乱の日、建武3年1月17日というのは展示番号11のちょうど一週間後です。展示番号11では足利尊氏軍が京都に攻めてきていましたが、その後、尊氏に対抗する新田義貞が足利直義や高師直と戦いつつ都に攻め上ってきて、この文書で「世上動乱」といっているような状況になりました。足利尊氏や新田義貞というのは歴史の教科書に必ず登場する著名な人物ですが、彼らの行動は教科書には出てこない普通の人にこのような大きな影響を及ぼしていました。

 

13 天地之部37号「廿一口方評定引付」文明元(1469)年4月25日条

天地之部37

応仁・文明の乱の最中、東寺供僧は寺の宝物(ほうもつ)の安全が心配になり、醍醐寺へ避難させました。しかし、醍醐寺も危険かもしれないとのことで預けていた宝物を東寺へ戻すことを考えたようです。この文書には「六条陰陽師仁可被占之由衆議了」とあって、実際に移動させるかどうかは六条陰陽師に占わせて決めることにしたようです。

 

14 ち函19号「廿一口方評定引付」文明2(1470)年8月10日条

ち函19号

文明2(1470)年7月20日、西軍の大内政弘が醍醐・山科を攻め、醍醐寺では多くの建物が火事となり、東寺が預けていた宝物もこれに巻き込まれてしまいます。この文書は預け先の醍醐寺から戻ってきた宝物のリストで、火事の後なくなっていたものが八幡市(はちまんのいち)で売られているのを見つけたので買った、理性院の庭で拾った、といった記述もあり、火事の後の混乱した状況がうかがわれます。

 

今回はここまでです。次回は展示番号15からご紹介します。

 

 

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京都市左京区下鴨半木町1番地29

電話番号:075-723-4831

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