京都府立京都学・歴彩館
東寺百合文書WEB

百合百話 (ひゃくごうひゃくわ)

49.平成27年度 東寺百合文書展 その2

2016-02-10

今回の百合百話では、「平成27年度東寺百合文書展ー今に伝わる2万5千通―」で展示した文書の15番からご紹介します。

 

15 せ函武家御教書並達86号「織田信長禁制」永禄11(1568)年9月 日

せ函武家御教書並達86号

永禄11(1568)年9月、織田信長は足利義昭(この直後に将軍になります)を奉じて京都に入り、東寺に陣を構えます。その時に信長が自分の配下に向けて、東寺境内で濫妨狼籍や陣取、放火などをしてはならないと命じたのがこの文書です。東寺の側としては、大勢の軍隊が寺の中に駐留するわけですから、どんなトラブルがおこるか、当然心配になりました。そこで信長に頼んでこのような文書を出してもらっているのです。東寺百合文書のなかには他にも多くの禁制が残されています。平和ではない時代に寺の安全を保つのはなかなか大変だったようです。

 

16 せ函古文書12号「東寺宝蔵納物注文」建保4(1216)年2月16日

せ函古文書12号

建保4(1216)年2月5日の夜、盗人が東寺の宝蔵に入るという事件がありました。この文書はそれから十日ほど後のもので、盗まれた物・盗まれずに無事だった物を調べて書き上げています。盗まれてしまったほうには御道具唐櫃に納められていた五鈷、鈴などが書かれています。盗まれなかったほうには「文書箱三合 被付封」や「官符等箱壱合」などが書かれていますので、このとき文書は無事だったようです。なお、この後の2月29日に犯人がつかまり、盗まれたものも戻ってきました。

 

17 天地之部40号「廿一口方評定引付」文明9(1477)年7月晦日条

天地之部40号

この文書は廿一口方(にじゅういっくかた)と呼ばれる東寺の供僧組織が行なった会議の記録です。文明9(1477)年の7月晦日に行なわれた会議では、7月28日の夜、宝蔵へ盗賊が入ったことが議題に取り上げられています。盗賊の入り方を「宝蔵の板敷を焼き破る」と表現していて、こっそりと鍵を開けてというような穏やかなやり方ではなく、かなり乱暴なやり方だったようです。また、展示番号16の建保4(1216)年にあった盗難のことも参考として書かれています。これは261年も前の事例をひいているわけで、2016年の現在に当てはめると、江戸時代の宝暦5(1755)年に起きた事件を先例としてあげるようなものです。ずいぶん昔のことを先例にひいていることから、宝蔵の宝物が盗まれるということがそれだけ大きな事件だったということができるのではないでしょうか。あるいは、現代人にとっては江戸時代の事件はずいぶん前のことですが、室町時代の人にとっては鎌倉時代に起きた事件はそれほど昔のことには感じられなかったのかもしれませんね。

 

18 テ函143号「唐櫃所納重書目録」文明9(1477)年7月晦日

テ函143号

展示番号17と同じ7月晦日に書かれた文書です。7月28日夜に起きた盗難の後、重書唐櫃一合に納められている証文の点検をしています。「学衆方重書正文一結」「惣安堵段銭免除等一結」など、種類ごとに文書を束ねて、それらを唐櫃に入れ、その唐櫃を宝蔵に納めていたことがわかります。

 

19 メ函264号「唐櫃所納道具注文」文明9(1477)年8月19日

メ函264号

展示番号18同様、この文書も盗難の後、点検をして作成したものですが、こちらの文書には仏舎利などの宝物が書き上げられています。

 

20 さ函113号「文書出納日記」長禄3(1459)年12月6日部分

さ函113号

現代の私たちにとっては東寺百合文書は「古文書」ですが、中世の人々にはこれらの文書は日々の仕事の参考にしたり、訴訟で証拠や先例として示したりするため、実際に利用するものでした。多くの人が使うものは、いつのまにかなくなってしまうということも起こりがちですが、中世の東寺では文書を持ち出すときや返却したときにきちんと記録をつけ、なくならないように管理をしていました。この文書はその記録の一部で、たとえば、長禄三年一二月六日には堯忠と宗寿の二人で御判物四通〈永和三十一廿一、応永十七十二廿四、永享六三廿六、同四四十一〉を取り出したことがわかります。また、これらの文書は翌年の三月二日に仁然と宗寿が返却したということもわかります。

 

21 天地之部34号「廿一口方評定引付」長禄3(1459)年12月3日条

天地之部34号

展示番号17と同様、廿一口方(にじゅういっくかた)と呼ばれる東寺の供僧組織が行なった会議の記録で、こちらは長禄3(1459)年の分です。12月3日の条には「一 惣安堵事、披露之処、急可被申之云々」とあります。「惣安堵」という、土地に対する権利についてのお墨付きを出してもらえるよう、武家に依頼する件を会議の議題にあげたところ、早くそうしよう、ということになりました。そのような依頼をするときには根拠となる文書を添付する必要があるので、必要な文書を文庫から取り出してきます。その時に書かれたのが、展示文書20の12月6日に文書4通を取り出したという記録です。

 

22 ケ函165号「廿一口方所出文書目録」長禄3(1459)年10月5日

ケ函165号

この文書は、持ち出されたままでまだ返納されていない文書を書き出したものです。展示番号20のような文書出納帳をチェックして、返納されていない文書を書き出しています。端裏書きに「長禄三十五書写之」とありますので、長禄3年の10月5日にこれを書いたことがわかります。どうしてこのときに返納されていない文書を調べる作業をすることになったのか、理由がわかる文書や記録があればよいのですが、残念ながら見あたりませんでした。

ケ函165号の端裏書

 

23 あ函43号「文書出納日記」享徳2(1453)年4月18日部分

あ函43号

展示番号22のひとつ書きの4つ目には、まだ返納されていない文書として「一 洛中地口免除目録 文安二 一通 肥前方ニアル歟 享徳二年四月十八日出之」があげられています。その文書は、こちらの展示番号23文書のなかに、享徳2(1453)年4月18日、その洛中地口免除目録を快寿と仁然が取り出したと書かれていました。「一」の上に○があるのは、展示番号22文書を作るために、返されていない文書を調べる作業をしていたときに、これは返されていないぞ、という意味でつけた記号でしょうか。

 

24 さ函111号「文書出納日記」

さ函111号

展示番号22の後ろから3つ目のひとつ書きには「上桂箱 是ハ若被納之歟 一 上野庄検注等一結十九出之 康正三年六月廿一日 仁然 尭忠」とあります。その「上野庄検注等一結」を実際に取り出したとき・返納したときに書いたのがこちらの展示番号24です。返納の日は「長禄三年十一月二日」となっていて、展示番号22の文書が作られてからからひと月ほど後の時期です。もしかすると催促があって急いで返納したのかもしれません。

 

25 シ函29号「観一御影堂聖人職条々請文」永徳元(1381)年6月11日

シ函29号

展示番号20・23・24のような、文書出納の帳簿に持ち出した人・返した人として署名をしているのは「供僧」といわれる人です。しかし、供僧が自分で文書が収められている部屋から文書を取り出してくるのではありません。たとえば、総合資料館では、利用者が閲覧申請書を提出して資料の請求をすると、職員がその資料を取り出してきて利用者に渡す、というシステムになっていますが、これと同じように中世の東寺にも文書を出納する役目の人がいました。御影堂の聖人(しょうにん)がそれで、この文書は観一という人物が御影堂の聖人に任じられるときに提出した誓約書です。最初の一つ書きで「文書出入以下之所役、致慇懃沙汰、毎事不可違衆命事」とあり、文書の出納などの仕事は念入りに行ない、何事につけても供僧の指示に従う、と誓約しています。

 

26 メ函296号「増長院義宝請文」6月11日

メ函296号

27 無号之部162号「増長院義宝請文追而書」

無号之部162号

28 ル函285号「増長院義宝書状包紙」

ル函285号

展示番号26・27・28は、別々の函に入って今に伝わりましたが、もとは一体のものでした。書状の本体(26)には追而書(おってがき)といわれる紙が付け足され(27)、包紙(28)で包まれていました。この書状により、展示番号25の観一が聖人に任じられたのはこの書状の主、義宝が観一を推薦していたからであることがわかります。推薦したからには責任が出てくるらしく、義宝もこの書状のなかで「観一に違失がないよう指導します、もし観一が誓約に違反して不義なことをしたときには請け人である自分が厳しい処分を受けます」と誓約をしています。追而書には「観一房請文一紙捧之候」とあるので(赤い矢印部分)、展示番号25の観一の請文はまず義宝に渡され、義宝がこの書状と一緒に廿一口方の年行事に送ったこともわかります。

 

29 コ函14号「宝蔵破損文書等所出日記」応永9(1402)年7月14日

コ函14号

宝蔵にある文書を修理のために取り出したときに書いた記録です。取り出した文書のなかに「聖宝等別当補任官符」が見えますが、聖宝が東寺凡僧別当に任じられたのは延喜2(902)年のことですので、このときすでに500年も経過した文書でした。当時の「古文書」修理ですね。

 

30 セ函53号「金勝院融寿等連署東寺諸合力法式置文」文明元(1469)年11月6日

セ函53号

こちらは現代の古文書修理です。京都府立総合資料館で受け入れた後に修理をおこなったもので、別の紙を台紙にしてその上にもとの文書を貼り付けています。画像ではわかりにくいかもしれませんが、年月日よりも後の部分を見るとずいぶん傷んでいて、そのままにしておくと、ばらばらになってしまいそうでした。

 

今回はここまでです。次回は展示番号31から最後の47までご紹介します。

展示期間中に会場で配布していた解説はこちらからどうぞ。

 

 

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