京都府立京都学・歴彩館
東寺百合文書WEB

百合百話 (ひゃくごうひゃくわ)

50.平成27年度 東寺百合文書展 その3

2016-03-01

今回の百合百話では、「平成27年度東寺百合文書展ー今に伝わる2万5千通―」で展示した文書の31番から最後の47までをご紹介します。

 

31 ニ函141号「廿一口方永正元年同二年分文書包紙」永正2(1505)年

ニ函141号

廿一口方の永正元(1504)年・永正2(1505)年の文書で、「反古之内用捨分」つまり、いったんは棄てることにしたものの気が変わって、残しておくことにした文書を包んでいた紙です。これに包まれていた文書が何だったのかを知ることはできませんが、もしかするとこのときに生き残ることができた文書がいまも東寺百合文書の中にあるのかもしれません。

 

32 ク函5号「備中国新見荘領家方奥村分正検畠取帳案」

ク函5号

ずいぶん灰色がかった紙に書かれています。また、この紙の中には何か小さくて黒いものが混じっているのがわかるかと思います。この紙は宿紙(しゅくし)とよばれる再生紙で、原料とした使用済みの紙の墨が灰色の原因です。小さな黒いものは、原料の紙があまりほぐれずに残り、そこに書かれていた文字の墨色が目立っているのです。廃棄された文書がたどる道のひとつが、漉き返されて新しい紙になり、また文書が作成されるというものです。宿紙には、たまにもとの文書の文字がそのままのこっていることがあり、この文書にも、右に九〇度回転させ、さらに左右を反転させると「沙有」の二字が見える箇所があります。

 

33 や函10号「若狭国太良荘并尾張国大成荘文書案」

や函10号

この文書、長さは23.5メートルほどもあります。太良荘や大成荘に関する文書が多数書き写されています。展示したのは延応元(1239)年2月11日の御室宮令旨(おむろのみやりょうじ)を書き写した箇所で、裏側にも何か文字が見えていて、どうやら文書があるようです。実は、裏側にも文書がある、というよりも、裏側にあるのが本来の文書で、それが不要となって廃棄された後、再利用すべく裏返して文書を書いているのです。いったんは棄てられてしまた文書が裏側になりながらもしぶとく現在に伝わっているわけで、この裏面になって残った文書を紙背文書といいます。展示箇所の紙背文書は西院御影堂で朝夕におこなう勤行の着到(ちゃくとう、行事に出席・参加した人の名前を記す文書)です。

 

34 ム函51号「学衆評定引付」応安7(1374)年12月8日条

ム函51号

着到については、会議の記録にこのような記事がありました。毎月21日に行なう論議(御影供論義)の着到がなくなってしまったので、参加・不参加の人数がわからない、というのです。費用を計算するためにはその着到を参照する必要があるようです。現代と同じように、中世でもうっかり書類をなくしてしまうことがあったのですね。

 

35 追加之部22号の24「足利義詮願文案」文和3(1354)年10月15日

追加之部22号の24

こちらも文書をなくしたことがわかるケースです。なくなったのは室町幕府二代将軍足利義詮からもらった文書で、困った東寺は幕府に事情を説明し、写しの裏面に一筆書き加えてもらいました。幕府から一筆もらうことで単なる私的な写しではなく、原本はと効力をもつ文書になるのです。展示しているのはそのさらに写しです。

 

36 く函1号「廿一口方評定引付」応永11(1404)年9月14日条

く函1号

土地を売るとき、売主は売券(ばいけん)を作成し、買主に渡します。売券には、どの土地をいくらで誰に売るのか、また、その土地には年貢などどのような負担がついているのかといったことが記されます。売主は自分が作成した売券を渡だけではなく、自分が持っている、その土地に関するこれまでの売券もあわせて買主に渡します。過去に転々と売買されてきた土地を売買すると、多くの売券が売主から買主に渡されることになります。つまり、土地を売るということはその土地に関する文書を失うということでもあるのです。土地の売買は、売主が売りたくて売るという場合だけではなく、土地を売れとの要求を断り切れず、売りたくないのに売らざるを得なかった、という場合もあります。ここでは御児と呼ばれている人物が河原城荘を150貫文で売れと東寺に言ってきていて、自分で売券の案を考えて東寺側に渡し、このとおりに売券を書き、供僧の署名をつけて提出するようにとも言っています。

 

37 メ函194号の1「法印親暁権少僧都竪済連署大和国河原城荘売券」応永11(1404)年10月1日

メ函194号の1

38 テ函82号の1「法印頼暁権少僧都堅済連署契状」応永11(1404)年10月1日

テ函82号の1

39 ワ函20号「法橋快舜大和国河原城荘売却料足請取」応永11(1404)年10月2日

ワ函20号

東寺側は、河原城荘を売れと言われても断り続けていたのですが、応永11年10月1日、今日中に前の案のとおり売買の契約書を書いて出せとまで言われて、ついに売らざるを得なくなってしまいました。展示番号37はこのときに作成して差し出した売券で、展示番号38は、代金を受け取り、土地を確かに売り渡したので、今後権利を主張するようなことはありません、と誓約をしている文書です。展示番号39は代金一五〇貫文の領収書です。ところで、売券は売主から買主に渡されるものなのに、37はなぜか売主の東寺のもとに残っています。しかも、大きく×の印がつけられています。38・39も相手に渡したはずのものなのになぜか東寺に残っていて×印がついています。

 

40 く函4号「廿一口方評定引付」応永15(1408)11月8日条

く函4号

41 ホ函43号「御賀大和国河原城荘代官職請文」応永15(1408)年10月25日

ホ函43号

東寺が河原城荘を売ってから4年後にはすっかり事情が変わっていました。この時、御賀(展示番号36では「御児」)はすでに力を失っており、東寺は公方に訴えて河原城荘を取り戻すことに成功していました。御賀は完全に土地を手放すのではなく、なんとか荘園の支配を続けようとして、赤松性松に間に入ってもらい、自分を代官にして欲しいと東寺に申し入れます。これに対する東寺側の態度は、先に渡していた証文などはすべて返却する、毎年40貫文の年貢を納める旨誓約書を出す、という条件で代官にしてやろう、というものでした。それも赤松の仲介があってこそのことで、立場はすっかり逆転しています。御賀はいわれたとおり文書を返却し、展示番号41の請文を東寺に提出しました。展示番号37・38・39が東寺に残ったのは、このような事情で御賀から東寺に再び戻ってきたためで、文書に大きく書かれている×は、文書を取り戻した東寺が売買の効力を否定するためにつけた抹消のしるしです。売買のとき、東寺長者俊尊が河原城荘を東寺供僧に寄進したときの寄進状も御賀に渡されていましたが、この文書も同じく戻ってきて現在は東寺に所蔵されています。これらの文書はこのような事情を経てたまたま伝わったといえる文書なのです。

 

42 き函37号「足利義満自筆仏舎利奉請状」応永13(1406)年9月10日

き函37号

荘園一つを無理やり売らせるほどの人物、「御賀」とはどんな人なのでしょうか?この文書は足利義満が東寺を訪れて仏舎利を貰い受けたときに自ら筆をとって書いたものです。2番目に現れる「御賀麿」が東寺に河原城荘を売らせたその御賀です。義満の寵愛を受けた稚児でした。義満の次に、そして三宝院門跡・醍醐寺座主を兼ね義満の猶子でもある有力者満済よりも前に書かれていて、その権勢のほどがうかがえます。しかしその後、応永15(1408)年5月6日に義満が死去すると力を失ってしまいます。この奉請状はこれまでもたびたび展示してきましたが、河原城荘売買のエピソードと合わせてご覧になるとまた違う印象を持っていただけるのではないでしょうか。

 

43 天地之部18号「廿一口方評定引付」応永13年(1406)年9月11日条

天地之部18号

展示番号42の仏舎利奉請状が足利義満の自筆であるとなぜわかるのでしょうか?実は義満が東寺にやってきた翌日に行なわれた会議の記録にあらわれているのです。「御奉請記六、北山殿自筆被遊之了」とあり、「御奉請記六」というのが展示番号42の奉請状のことで、北山殿、つまり義満が自筆あそばされた、と書かれています。

 

44 リ函25号「観心後家比丘尼田地文書紛失状案」正安2(1300)年3月 日

リ函25号

観心は清原末吉に20貫文を貸し与え、その担保として左京九条六坪にあるこの2段の土地を質に取り、借用書とともに証文13枚を差し入れさせていました。その後、元本利息全部の支払いを受けたので借用書と証文13枚は末吉に返さなければならないのですが、なくしてしまったので返せません。そこで観心の後家(この文書が書かれた時、観心はすでに亡くなっていました)が、借用書・証文13枚は確かに紛失してしまったもので、もしこれらの文書を持ち出して権利を主張する者がいればそれは盗人であること、そのような者には自分や子息がきちんと対応すること、また、自分達は文書を決して隠していないことを神に誓っています。権利者が自分のために作成する紛失状ではなく、文書の紛失者が権利者のために作成する紛失状というすこしかわった事例です。

 

45 リ函35号「後家妙恵田地文書紛失状」正和3(1314)年5月22日

リ函35号

3行目から書かれている土地の四囲を見ると、展示番号44と同じ土地です。また、末吉が観心から20貫文を借りて本券13通を質に差し出していたこと、元利全部を返済したので文書を返却してもらうはずなのに・・・という事情も同じです。展示番号44では文書がなくなってしまったことについて「不慮之外令紛失」とあるだけですが、こちらのほうにはもう少し詳しくいきさつが書かれています。証文を質に取っていた金の貸主は、六波羅にある住居の家内財産を検断によりことごとく持って行かれ、そのときになくなった、というのです。検断とは犯罪に関わった者の家や財産を没収することです。こういった場面でも文書がなくなってしまうことがわかります。ところで、この文書では検断および文書紛失は正和2(1313)年のことだといっているのですが、展示番号44では正安2(1300)年にすでに文書が紛失していることになっています。このあたり、何か複雑な事情があるのでしょうか。

 

46 シ函3号の1「平信正敷地文書紛失状案」承久3(1221)年7月 日

シ函3号の1

去る6月、天下の兵乱のときに、京都から宇治三宮津に財産・文書を避難させていたところ、同月11日に官兵等にそれらを奪われてしまった、と書かれています。承久3年6月の「天下の兵乱」というのは、後鳥羽上皇が鎌倉幕府を倒そうと挙兵した承久の乱のことです。すでに劣勢となっていた京方と、勝ちを重ねつつ京都へ攻め上ってきた幕府方が宇治で激突するのはこの直後、13日のことです。財産・文書を奪った官兵というのは京方の武士のことで、数日後には戦に敗れ、逃げ落ちることになるのですが、この時にはまだそのような結果はわかっていません。

 

47 ヰ函16号「西七条住人沙弥観阿私領田畠屋敷等証文紛失状案」延慶4(1311)年3月2日

ヰ函16号

観阿は田畠屋敷の証文を了阿という人物の土倉に預けていたのですが、その土倉に盗人が入り、物を盗み取った上に放火してしまったため、預けていた文書も焼失してしまいました。土倉が他人の土地の証文を持っているのは、普通は金を貸してその担保として土地の証文を質にとるからなのですが、この文書には金の貸借に関することは何も書かれておらず、観阿は借金の担保として証文を預けていたのではないようです。銀行の貸金庫のように、貴重な物の保管場所になっていたのでしょうか。焼失した土倉の跡、灰となった中を探してみたところ文書の半紙、あるいは四、五行分ほど焼け残っていたものがあった、と書かれていて、展示番号7よりももっと焼けたような文書が散らばっていたのでしょう。また、盗人は「土倉を焼き穿って倉内に乱入」したとあり、火を使って入口を確保し侵入するという方法が展示番号17と同様であるのも興味深いところです。

 

展示期間中に会場で配布していた解説はこちらからどうぞ。

 

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