京都府立京都学・歴彩館
東寺百合文書WEB

百合百話 (ひゃくごうひゃくわ)

59. 近江国三村庄はどんな荘園?

2016-10-27

東寺百合文書には、山城国上久世(かみくぜ)庄、若狭国太良(たら)庄、播磨国矢野(やの)庄、備中国新見(にいみ)庄など、多くの荘園が出てきます。荘園(庄園とも書く)とは寺の恒例・臨時の法要を営むときや堂塔を建築・整備するときなどの経費を捻出する土地のことで、百合文書には東寺に関する荘園文書(寄進関係、諸職宛行関係、年貢関係、相論関係等)が数多く残っています。

ちなみに「百合百話」でもこれまでに矢野庄(第35話~第37話)、摂津国垂水(たるみ)庄(第26話、第27話、第32話)、伊予国弓削島庄(第40話)などの話が取り上げられています。

 

東寺百合文書WEBで、「百合文書をさがす」の詳細検索のキーワード欄に「太良庄」を入れると2113点がヒットします。同様に「矢野庄」では1355点、「上久世庄」では1346点、「新見庄」では1129点です。それに比べると、「垂水庄」では409点、「弓削島庄」では200点と、ヒット数は多くありません。

 

百合文書をさがす:http://hyakugo.kyoto.jp/contents/search.php

 

 

百合文書をさがす

 

東寺百合文書WEBでは、これまでの研究論文も検索できます。「百合百話」のなかに「最近書かれた論文など」(第16話と第17話の間)という紹介があります。そこでExcelファイル(2014年6月3日版)の論文リストを開いてみると、1499本の論文等が収録されています。

 

分類で荘園史を検索すると951本で、荘園に関する論文が約3分の2あることがわかります。最も研究の多いのが新見庄で171本、次いで矢野庄の114本、太良庄の105本です。ちなみに久世上下庄は68本、弓削島庄は56本、垂水庄は19本です。

 

最近書かれた論文など:http://hyakugo.kyoto.jp/hyakuwa/bibliog

 

最近書かれた論文など

 

前段が長くなりましたが、今回取り上げる近江国三村(みむら)庄について見てみましょう。

「百合文書をさがす」の詳細検索で「三村庄」を入れると417点がヒットし、垂水庄や弓削島庄よりも多くの文書の残っていることがわかります。しかし、「最近書かれた論文など」で検索すると研究論文はわずかに3本です。そのうち1本は各荘園の紹介記事で、実質的な研究論文といえるのは2本です。2本とも近年に発表されたもので、これまで三村庄は未知の荘園であったと言えるかもしれません。

 

東寺百合文書WEBには、「百合文書を楽しむ」に「地図から」という頁があります。その右端に「荘園」欄があり、そこをスクロールし「三村荘」をクリックすると、地図の滋賀県の琵琶湖のところにある荘園マークが強調され、地図の下欄に三村荘の概要が出てきます(東寺宝物館編『東寺とその庄園』が参考文献に上がっています)。

 

それによると、滋賀県近江八幡市に所在すること、平治元(1159)年の史料に荘園名が見えること、後醍醐天皇のときに東寺に寄進されたこと、室町期には守護の支配が進んで東寺領荘園としての実態は失われたことがわかります。

 

地図から:http://hyakugo.kyoto.jp/contents/map.php

 

地図からさがす

 

三村庄については位置や概要が分かり、関係文書も多数あるのに、なぜ研究が少なかったのでしょうか。いろいろな理由があったと思われますが、そもそも三村庄がどこにあるのかということが長らくはっきりしていなかったこともその一つです。

 

歴史的な地名を調べるときに利用する本に地名辞典があります。『日本地名大辞典』の滋賀県(角川書店、1979年)をみると、「愛智郡または蒲生郡のうち。(略)。現行の彦根市三津町付近とする説(輿地志略)があるが不詳」としています。

 

なお、『輿地志略(よちしりゃく)』とは江戸時代中期に膳所(ぜぜ)藩の儒者寒川辰清により編纂された近江国の地誌です。別の地名辞典である『日本歴史地名大系』(平凡社、1991年)には「近世の愛知郡島村(現彦根市)一帯に比定する説もあるが、中心を蒲生郡島郷の一部と見るのが有力」としていて、いずれも二説を上げています。

 

荘園をテーマに出版された『講座日本荘園史』全10巻(吉川弘文館、1993年)の第6巻では、近江における皇室本願の寺社領一覧の中に、三村荘は愛智郡稲枝村・三津村としていて、愛知郡説を採用しています。

東寺百合文書WEBの地図欄に上げられていた『東寺とその庄園』(東寺宝物館、1993年)では、「蒲生郡の嶋郷を中心とした庄園であるが、四至・田数などについては不明。現在の近江八幡市北ノ庄・多賀・市井・大林周辺と推定される」(水野章二さん執筆)と書かれています。この記述は、『滋賀県八幡町史』(1940年)等を基にしたものと思われます。

 

近年に書かれた村井祐樹さんの「東寺領近江三村庄とその代官」(東寺文書研究会『東寺文書と中世の諸相』、思文閣出版、2011年)、勝山清次さんの「南北朝時代の東寺領近江国三村庄」(『京都大學文學部研究紀要』52、2013年)という論稿では、「嶋郷内 本郷二分 嶋郷一分 惣号三村庄」(た函15号)等を引用しながら、蒲生郡嶋郷内の本郷と嶋郷を合わせて三村庄だとしています。

 

くた函15号 宝荘厳院執務料所等評定引付

た函15号「宝荘厳院執務料所等評定引付」応安4(1371)年

 

三村庄に関する文書はかなりありますが、その多くは算用状(散用状)等で、荘園内の住民の暮らしが直接わかる文書はほとんどありません。この点も研究が少なかった理由の一つです。その他、新史料(明治期の東大史料編纂所の影写本にはなく、1967年に総合資料館に入ってから確認された文書)が多かった点も理由として考えられます。

 

東寺百合文書WEBの概説にもあるように、南北朝・室町期に三村庄は守護方の地頭に掌握されていて、地頭方代官が東寺の地下代官を兼務していた時期もあります。

 

南北朝期の林時光もその一人で、林は蒲生郡大林の地名に因む人物と思われています(つ函1号-7)。南北朝期には、近江守護六角氏頼の弟山内定詮の被官人である野田五郎左衛門が三村庄を押妨したこともあります(た函15号)。この野田も蒲生郡野田を本拠とする人物とされています。室町期の永享年間に代官に任命された宇津呂(た函67号)も同じく、蒲生郡宇津呂の地名に因む人物と思われます。室町期の享徳年間に代官となった河井も蒲生郡河井(川合)の地名に因む人物です(た函84号)。

大林、宇津呂は嶋郷内に所在します。野田も、嶋郷に比較的に近い場所です。

 

くケ函131号 近江国三村庄寺用米未進徴符

ケ函131号「近江国三村庄寺用米未進徴符」文安2(1445)年3月 日

 

文安元(1444)年分の三村庄寺用米未進切符(ケ函131号)には、22ヶ所の未進分が書かれています。その中に、「多賀 衛門二郎衛門」「上田 左近次郎」「中村 衛門二郎衛門」の名前が出てきます。多賀、上田、中村はいずれも蒲生郡の地名で、多賀、中村は確実に嶋郷内といえます。

 

このように、三村庄と在地の姿もようやく少しずつ見え始めてきました。三村庄について、百合文書研究からも、地域の歴史研究からも、今後さらに研究が深められていくことを期待したいと思います。

 

※東寺百合文書WEBの「最近書かれた論文など」には収録されていませんが、関係する市町村史に荘園の記述が見られることもあります。三村庄の場合は、『近江八幡の歴史』第6巻通史(2014年)(源城政好さん執筆)なども参照すべき文献です。

(大塚活美:歴史資料課)

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