京都府立京都学・歴彩館
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百合百話 (ひゃくごうひゃくわ)

勤務先まで電車で通えば15分。てっきりそれで交通費が支給されると思っていたら、40分かかるがバスの方が安かったため、バス代が交通費として支給されることになったとしたらどう思うでしょうか。

 

経費削減という観点からみれば「当然だ」と思うかもしれませんが、一方で、電車であれば「もう少し寝られるのに…」と思う人は少なくないでしょう。経費削減がかまびすしく言われる昨今、よくある話です。

 

ところが、交通費の支給を安くすませようとする話は何も現代だけに限ったことではありません。東寺百合文書をみてみると、南北朝時代に、年貢の輸送に要した交通費の支給額をめぐって、支給する側の領主と支給される側の荘民との間で攻防が繰り広げられています。今回は交通費をめぐる論戦を紹介することにしましょう。

 

ラ函9号 学衆評定引付

ラ函9号「学衆評定引付」永和2(1376)年11月3日条

 

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ひとが生きていくために欠かせないもの、と言えばなんでしょう?

水、空気、自然、愛…?

いろいろありますが、そのひとつが「塩」。

塩は、生きていくために必要なものであると同時に、けがれを浄める力を持つ神聖なものとして、古代より祭祀などにも多く用いられてきました。

今では簡単に手に入る塩ですが、昔は決して、いつでもどこでも手に入るものではありませんでした。とくに海から離れた都、京都では、とても貴重なものだったのです。

 

前回の百合百話「おいしい海の幸を送ります」では、弓削島という瀬戸内海の小さな島からの年貢について、お話ししました。

「塩の荘園」として知られる弓削島荘(ゆげしまのしょう)は、東寺に多くの塩を年貢として納めており、東寺にとって、とても重要な荘園のひとつでした。塩は、お米と同じように「俵」で数えられ、お米に代わる年貢として納められていたようです。

 

次の文書は、弓削島荘から東寺へ年貢の塩が送られた際、添えられた送り状です。

 

と函19号-2 伊予国弓削島荘年貢塩送進状

と函19号-2 「伊予国弓削島荘年貢塩送進状」文永11(1274)年7月24日

 

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日本人の主食であるお米。なにはなくとも、白いご飯さえあれば…というかたも多いでしょう。

今のように、誰もが気軽に口にできたわけではありませんが、昔からお米は日本の食卓に欠かせないものでした。

「年貢」として納められたのも、多くはやはりお米です。たくさんの米俵が運ばれる絵、歴史の教科書などで目にしたこともおありではないでしょうか。

 

でも今回の話、実はお米の話ではありません。

全国各地それぞれの場所にさまざまな特産物があるように、その荘園がどんな場所にあるかによって、納められる年貢もやはりさまざまでした。

全国各地、80にも及ぶ東寺の荘園。

今回は、なかでもちょっとユニークな年貢を納めていた荘園について、お話しします。

 

と函3号 伊予国弓削島荘所当等注文(案)

と函3号「伊予国弓削島荘所当等注文(案)」延応元(1239)年12月日

 

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整備された「碁盤の目」の都として有名な平安京。

しかし、実はそのあちこちで、道路がいつのまにか田や畑にされる、なんてことがしばしば起こっていました。

前回の「道路が畑に…!? その1」では、東寺の少し北、東西にのびる八条通と大宮通が交わるあたりでも、道路が耕され、どんどん巷所が広がってきた様子をご紹介しました。

 

しかし、近くのお寺、遍照心院が、広がりつつある巷所を見かね、とうとう東寺へ訴え始めます。 

東寺はそれにどう対応したのでしょうか…?

次の文書は、東寺のなかでおこなわれた会議の議事録「評定引付」です。

 

天地之部18号 廿一口方評定引付

天地之部18号「廿一口方評定引付」応永13(1406)年2月28日条

 

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道路がいつのまにか畑や田んぼになっていた…!?しかも都会のまん中で!

今の日本ではちょっとありえないことですが、中世の都、平安京では、そんなびっくりするようなことが、しばしば起こっていました。最近流行の、ビルの屋上に庭園や菜園をつくる屋上緑化のようなものでしょうか?

いいえ、それとはちょっと違います。

 

「碁盤の目」として知られる平安京の道路。区画が定められ、まっすぐに規則正しく整備されていたはずですが…

いったいどういうことなのでしょう…?

次の文書は、その様子を図にしたものです。

 

ヰ函225号 遍照心院巷所差図案

ヰ函225号「遍照心院巷所差図案」

 

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大避神社の現在の様子

同じ地域に住む人々が、その地を守護する神様や仏様を祀り、ときには神社やお寺に集ってお祭りに興じる姿は、日本各地でよく目にする伝統的な風景とひとつといえるでしょう。

 

矢野荘も例外ではなく、今でも集落や地域ごとに氏神を祀っています。なかでも、現在の矢野川と小河(おうご)川との合流点の西南にある「大避神社」は、矢野荘全体を守護する荘鎮守として人々の信仰を集めてきました(Googleマップ)。

 

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中ハサミ政所跡の現在の様子

同じ近畿地方にあるといっても、東寺のある京都と、矢野荘のある兵庫県相生(あいおい)市は離れています。都に居ながら地方の荘園を支配するためには、現地に事務・運営の拠点を設ける必要がありました。その施設を政所(まんどころ)といいます。東寺からすると、政所は荘園支配の心臓部だったわけです。では、その政所はどこにあったのでしょうか。

 

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矢野荘例名西方があった地域の現在の様子

来て、見て、体感して、ようやく実感がわくものってありますよね。

 

荘園も同じです。東寺百合文書のなかには多くの荘園関係文書が残っていますが、文書の文面を読むだけではなかなか実感がわきません。現地を訪ね、くまなく歩き、その地に広がる風景を目に焼きつけることも大切なのです。そこで、今回から3話連続で、播磨国(現在の兵庫県の南西部)矢野荘の探訪の様子をお届けします。

 

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わたしたちは今も、星占いをしたり、流れ星に願い事をしたり…しばしば夜空の星に思いを馳せます。

しかし、中世の人びとにとって、星の動きは今よりもずっと重要なことでした。流星群や彗星など、いつもと違う星の動きは、大きな天変、なにか悪いことが起こるまえぶれではないかと恐れられ、ときには大騒ぎにまで発展したのです。

 

応永9(1402)年、室町幕府全盛期、足利義満が権勢を誇っていたころのことでした。

それは、年明け早々の1月17日、京都の西の空に大きな彗星が現れたことから始まりました。彗星は、光を強めたり弱めたりしながら、なかなか消えません。雪が降ったり強風が吹いたり、天気も荒れ模様だったようです。いったいどうなってしまうのでしょうか…?

 

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「星合(ほしあい)」ということばがあります。1年に1度、陰暦7月7日の夜に、牽牛と織姫、ふたつの星が出会う、つまり七夕のこと。ロマンティックな伝説に彩られた、今でもわたしたちになじみ深い行事です。

 

しかし、実はもうひとつ、まったく別の意味もありました。「二星合(にせいごう)」、「三星合(さんせいごう)」などといって、水星、金星、火星、木星、土星のうち、二つの星がとても近づいて見えたり、三つの星が集まって見えたりする現象のことをいったようです。こちらの「星合」は、ロマンティックどころか、なにか悪いことが起こる前ぶれなのではないかと恐れられました。

 

空気の澄んだ冬の夜空は、星がとてもきれいに見えます。

でも、きれいとばかり言っていられない…?今回は、ときに大騒動まで巻き起こした夜空の星の話です。

 

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